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bunboni こと 荻原和也 の 音楽案内所 musicaholic ブログ(隔日刊 2009年6月2日より)にようこそ。

『ミュージック・マガジン』7月号にディノ・ディサンティアゴのインタヴュー記事を寄稿しました。ぜひお読みください。

カテゴリ: 中部アフリカ

Jupiter & Okwess  EKOYA
グローバルな活躍をみずからの音楽性にこれほど見事に還元している
アフリカ人アーティストは、ジュピテール&オクウェスをおいて他にいないんじゃないかな。
前作 “NA KOZONGA” の記事で「野性と洗練」と題しましたけれど、
4年ぶりの新作にも、まったく同じことがいえます。

今作では12曲中9曲をメキシコ・シティでレコーディングしていて、
リオ出身のブラジル人シンガー、フラヴィア・コエーリョ、
メキシコの先住民(サポテカ)ラッパー、マーレ・アドバテンシア・リリカ、
コンゴ民主共和国のシンガー、ソイ・ンセレをゲストに迎えています。

20年の南米ツアー中に構想された本作は、
ツアー終了後の帰国前にコロナ禍でメキシコでの小休止を余儀なくされ、
ラテン・アメリカの文化にどっぷりと浸かる貴重な体験によって生み出されたといいます。
グァダラハラとメキシコ・シティのスタジオで時間を過ごし、
サントラ『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』で注目を集めた
プロデューサーのカミーロ・ララほかと仕事をしたんですね。

コンゴ民主共和国の抑圧や不正義に対抗するジュピテールたちの意思が、
世界中の抑圧されたコミュニティの権利と正義を求める
メキシコ先住民サポテカ人ラッパーと共鳴しあうのも当然で、
パワフルなオクウェスのサウンドと相乗効果をもたらして爆発しています。
刻むギターのきしむ音や弾むベース・ラインがドライヴして、
熱帯雨林の破壊への怒りをダイレクトに伝えています。

大西洋を隔てた2つの大陸でアフリカの人々が共有してきた歴史に
インスパイアしあった作品で、ダークでヘヴィな面ばかりでなく、
軽快な身のこなしを聞かせるダンス・トラックでは、
異文化の出会いのなかにも両者が共有し合う親密さを感じさせ、
ジュピテール&オクウェスの音楽性の成熟を見る思いがします。

Jupiter & Okwess  "EKOYA"  Airfono  AF03801204  (2025)

Patrick Bebey  PONDA
パトリック・ベベイは、カメルーンが生んだ音楽学者フランシス・ベベイの息子。
ジャーナリスト、ブロードキャスター、詩人、音楽家と、多彩な才能の持ち主だった
フランシス・ベベイは、最近になってエクスペリメンタルやサイケ趣味といった方向から
再評価を受けたりしていますけれど、
ぼくが最初に『ポップ・アフリカ700』を書いた時には、スルーした人でした。

アフリカの音楽や楽器を広くヨーロッパに紹介した人ではあるものの、
自身のルーツとなるアフリカ音楽を持ちあわせない、いわば「白いアフリカ人」。
それゆえベベイの音楽には、学者が作った観念的なアフリカ音楽の味気無さしかなく、
その人工的な質感は、アフリカ音楽が本来持つ特性とあまりにかけ離れていました。

増補改訂時の『ポップ・アフリカ800』では、
いちおう取り上げておこうかと思い直したんですが、
再読してみたら、やっぱりけっこう冷淡に書いてますね。
興味のある方は、139ページをご覧ください。

さて、そのベベイの息子さんであるパトリック・ベベイのソロ作が届きました。
パトリックもパリ音楽院でクラシック音楽にジャズやブラジル音楽を学んだという
お父さんと似たキャリアを積んだ人ですが、さすがに時代も下ったせいか、
パトリックの音楽には父親のような味気無さはありません。

パトリックはピアノ、エレピ、ピグミーの笛、サンザ(親指ピアノ)を演奏し、
レパートリーは半数以上が父フランシスの曲。
ブラジル人ドラマーやデンマーク人ジャズ・ヴァイオリニストなど、
パリ在住の多国籍ミュージシャンが集っています。

なかでも目を引いたのが、昨年3月に亡くなったフランスの名ジャズ・ギタリスト、
シルヴァン・リュックが2曲で参加していたこと。
ジャケットには、シルヴァンへの献辞が書かれていて、
パトリックとは90年代からの付き合いだったようです。
シルヴァンらしいひらめきのあるギター・ソロが聞けるとおり、
アルバムはジャズ色の濃い演奏となっています。
Francis Bebey  DIBIYE
パトリックのシロウトぽい歌は父親譲りですね。
そういえば、親子共演しているフランシス・ベベイのCDがあったはずと探したら、
97年の “DIBIYE” で、兄のトゥープスと一緒に参加していますね。
90年代のフランシス・ベベイのアルバムには、
3人がクレジットされているアルバムが多くあります。

90年代から活動を続けてきたことで、伴奏するヨーロッパ人音楽家を含めて、
アフリカ音楽への理解が進んだということなのでしょう。
こなれたアフリカ音楽が演奏できるようになった証しに、
リズムの咀嚼面で格段の進歩を遂げているのが聴き取れます。

Patrick Bebey  "PONDA"  Ozileka  OZIL077  (2024)
Francis Bebey  "DIBIYE"  Fonovox  VOX7989-2  (1997)

África Negra  ANTOLOGIA VOL.1.jpg África Negra  ANTOLOGIA VOL.2.jpg

うわ~、田舎くせぇ。
そんなことを言いながら、頬を緩ませておりますよ。
サントメ・プリンシペを代表するバンド、アフリカ・ネグラのアンソロジー第二弾です。

2年前、ボンゴ・ジョーがアフリカ・ネグラの81年デビュー作から
96年までのアルバムから12曲を選曲したアンソロジーを出しましたけれど、
なぜか本ブログで記事にしそこねてましたね。
「レコード・コレクターズ」のリイシュー・アルバム・ガイドには
記事を書いたんだけどなあ。続編が出たので、あらためて書いておきましょう。

2年前に出たアンソロジーは、ギター・バンド時代のヒット曲を中心に集め、
アフリカ・ネグラの魅力をよく捉えた好編集盤となっていました。
よくいえばシンプル、悪く言えばスカスカの、
垢ぬけない一本調子なサウンドではあるんですけれども、
のんびりしたローカルぶりには、捨てがたい味があります。

90年代に入るとホーン・セクションやキーボードを導入して、
ザイコ・ランガ=ランガのクワサ・クワサを取り入れていくのですが、
80年代は3台のギターを中心とするギター・バンド・サウンドだったんですよ。

África Negra  CARAMBOLA.jpg África Negra  ANGELICA.jpg

África Negra  ALICE.jpg África Negra  MADALENA MEU AMOR.jpg

当時のアルバムでは手元に4枚がありますけれど、バランスよく選曲されていますね。
個人的には未聴だったデビュー作の2曲が、
サントメ・プリンシペ独自のプシャというスタイルで、興味深かったです。
続編となる今回のアンソロジーは未発表曲集。
DJトム・Bことトーマス・ビッグノンの詳細な解説が、今回もとても参考になります。

拙著『ポップ・アフリカ800』で、
「70年代末に結成されたジョアン・セリア率いるアフリカ・ネグラ」と書いたのですが、
結成は75年(前身のバンド、コンジュント・ミランドは72年結成)でした。
申し訳ございません。訂正させていただきます。
また、ジョアン・セリアはリーダーではなく、
76年にアフリカ・ネグラのライヴァル・バンド、サンガズーザから
引き抜かれたシンガーで、77年に正式なメンバーとして、
リード・ヴォーカリストに格上げされたと書かれていました。

Joao Seria.jpg

そのジョアン・セリアのアルバムでは96年作が好きなんですが、
音域も奏法もまったく違う2台のギターの絡みが聴きもので、
その2台のギターの合間をふわふわと浮かんでは着地する
風船のようなラインを弾くベースもユニークなんです。

ジョアン・セリアは、昨23年5月4日に亡くなったそうで、
本アンソロジーはジョアン・セリアに捧げられています。
ジョアン・セリアの葬儀は、国民の祝日にもかかわらず、
何千人ものファンに囲まれ、国葬のセレモニーと関係者の賛辞を受けたそうです。

今回の未発表曲集では、 ‘Numigo Iami È’ ‘Anô Ano’
‘Povo Milagrosa’ ‘Fala Tendè’ がサントメ・プリンシペ独自のプシャだということ。
いまだよく実態のつかなないプシャに、少しづつ近づいてきた感がありますね。

África Negra "ANTOLOGIA VOL.1" Bongo Joe BJR056
África Negra "ANTOLOGIA VOL.2" Bongo Joe BJR068
África Negra "CARAMBOLA" Sons D’África CD715/13 (1983)
África Negra "ANGELICA" Sons D’África ) CD714/13 (1983)
África Negra "ALICE" Sons D’África CD716/13 (1983)
África Negra "MADALENA MEU AMOR" Gravisom C34/96 (1996)
João Seria "BOIA SAIÁ" Gravisom C33/96 (1996)

Les Belgicains.jpg

64年から68年にかけてブリュッセルで録音されたコンゴ音楽のリイシュー。
コンゴ音楽揺籃期の最重要レーベル、ンゴマで働いていた
ニキフォロス・カヴァディアスがコンゴ動乱から逃れてベルギーへ渡り、
64年に設立したコヴァディアに残した録音集です。

ニキフォロス・カヴァディアスは、ンゴマを創設したニコ・ジェロニミディスの死後を
引き継いで二代目社長となったものの、ライヴァル・レーベルの乱立から経営難となり、
政情不安も重なって地元コンゴでの商売に見切りをつけ、
ベルギーに新天地を求めたのですね。

当時ブリュッセルには、将来の幹部候補生を夢見るコンゴ人留学生が大勢いて、
ニキフォロスは若い才能にあふれた学生バンドをリクルートしては、
コヴァディアからEPをリリースしていたといいます。
う~む、こういう録音があったんですねえ。
アフロ・ネグロが留学生バンドだったなんて知りませんでした。

アルバム・タイトルになっている、コンゴの地元民がこうした留学生たちを
レ・ベルジキャン(ベルギー人)と呼んだのには、
エリートに対する羨望とやっかみがないまぜとなっているのでしょうね。
コンゴ帰国後は財界や政界で活躍した逸材も多くいたはずで、
音楽は若かりし頃の道楽に過ぎなかったのかも知れませんが、
本国の楽団に劣らぬ実力揃いなのが、この時代のスゴいところ。

面白いのはここに聞ける12曲が、ルンバ・コンゴレーズが完成して、
新たな時代に向けてルンバ・ロックの萌芽が始まろうとしていた時期なのに、
ひと昔前のラテンの残り香がするルンバが目立つことでしょうか。

フラメンコやブーガルーを取り入れた曲があるなど、
グラン・カレやフランコの時代から歩みを進めた
新しいラテン音楽へのアプローチも聞かれます。
コンゴ本国では求められない音楽性の違いは、
ヨーロッパという環境がもたらした影響でしょう。

そしてなにより感じ入ったのは、音質の良さ。
最後の1曲をのぞいてオリジナル・テープからリマスターしているのだから格別です。
戦乱でマスターをすべて焼失したンゴマの音源とは比べ物になりませんよ。

Ebuka Ebuka, Afro Neoro, Carlos Lembe, Yéyé National, Ba Bolingo, Los Nickelos, Ekebo
"LES BELGICAINS - NA TANGO YA COVADIA 1964-70" Covadia COVADIA001CD

Tonecas Prazeres  AFROVUNGO PROJECT.jpg

ボンゴ・ジョーによるリイシュー・プロジェクトによって、
サントメ・プリンシペという国の音楽が、
ほんのわずかばかりですけれど、知られるようになりましたね。
https://bunboni.livedoor.blog/2022-12-17

とはいえ、現地盤CDを聴くチャンスはあいかわらずほとんどなくて、
配信でサントメ・プリンシペのヒップ・ホップ、ノヴァ・ジェラソーンが聞けるものの、
CDではエルデル・カンブレのようなヴェテランぐらいしか、
耳にすることができませんでした。

というわけで、ずいぶんひさしぶりに入手できたサントメ・プリンシペ盤。
その貴重な一作は、トネカス・プラゼーレスというシンガー・ソングライターの15年作。
10年近くも前の作品ではありますが、まあ、しゃーない。
時代が下ったことでプロダクションもぐんと向上して、
サントメ・プリンシペ音楽の、かつての田舎ぽいイメージは、
完全払拭されましたよ。

トネカス・プラゼーレスは、63年プリンシペ島生まれ。
84年にリスボンへ渡り、90年からソロ活動を始め、
さまざまなルゾフォニアのアーティストとのプロジェクトに参加しながら、
母国代表としてさまざまなコンサートに出演してきたとのこと。

本作は、トネカスが四半世紀のキャリアを経て制作した、遅すぎる初ソロ作。
ポルトガル在住のルゾフォニアのミュージシャンが大挙して参加し、
サントメ・プリンシペの伝統音楽やリズムである
ソコペ、ウスア、デシャ、ブラウエ、プイタに、
センバ、キゾンバ、レゲエ、ルンバなどをミックスしたポップスを聞かせています。

トネカスとドラムスのエドゥアルド・ミンガウの共同プロデュースで、
多彩なリズムの饗宴といったレパートリーを、
洗練されたプロダクションで聞かせていて、その手腕はこなれていますね。
アンゴラのシンガーのドン・キカス、モザンビーク出身のサックス奏者オーチスほか、
ポルトガル人シンガーのルイス・レプレサス、ギタリストのフィリペ・サントスなど、
フィーチャリングされるゲストも多彩で、
完成度の高いクレオール・ポップスを聞かせてくれます。

トネカスが進めるアフロヴンゴ・プロジェクトは、
サントメ・プリンシペの文化と音楽の普及に寄与していることから、
本作はサントメ・プリンシペ政府の後援も受けています。
贅沢なレコーディングが行われたのも、そうした支援があったからなのでしょう。

Tonecas Prazeres "AFROVUNGO PROJECT" Prazeres Produções Music CD001 (2015)

Pamela Badjogo  YIÊH.jpg

レ・アマゾーヌ・ダフリークの初代メンバーだったパメラ・バジョゴ。
フランス、リヨンで活動するガボン人シンガー・ソングライターで、
16年にデビュー作、21年に2作目を出しましたが、
今年3作目となる新作が出ました。

Pamela Badjogo  MES COULEURS.jpg Pamela Badjogo  KABA.jpg

デビュー作を聴いたときは、
カルメン・ソウザと似たタイプのジャズ・ヴォーカリストなのかなと思いましたが
https://bunboni.livedoor.blog/2013-10-09
2作目ではがらっとアフロビーツ色濃いサウンドに変わり、
パメラの歌もジャズ唱法をすっかりひそめてしまったので、
ポップスに方向性をシフトしたのは明らかですね。

新作も2作目の方向性を引き継いでいて、
両作のサウンドの仕掛け人は、ガーナ、ファンキー・ハイライフの大ヴェテラン、
パット・トーマス復帰後の2作をプロデュースした、クワメ・イェボア。
https://bunboni.livedoor.blog/2015-06-21
https://bunboni.livedoor.blog/2019-12-07

クワメ・イェボアは、ギター・バンド・ハイライフの名バンド、
カカイク・ナンバー2・バンド(K.K's No.2)のリーダー、
A・K・イェボアの息子という二世ミュージシャン。
パット・トーマスのバンド、クワシブ・エリア・バンドで
バンド・マスターを務めるマルチ奏者です。

パメラの2作目でもクワメが鍵盤、ギター、ベース、ドラムスと、
ほぼ全楽器を担っていましたが、
新作では多くのミュージシャンを起用して生演奏を増やしたことで、
アフロビーツ色が後退し、よりコンテポラリーなアフロ・ポップ作となりました。

リヨンで活動するマリ人ベーシスト、エリゼー・サンガレが、
ベースだけでなく作曲でもパメラとコラボしていて、
クワメとともに今作のサウンドづくりをリードする役割を果たしたんじゃないかな。
パット・トーマスが客演した曲では、ハイライフのメロディーと
アマピアノのサウンドをミックスさせるという面白い試みが聞けます。

パメラは82年ガボンの首都リーブルヴィルに生まれ、
03年に微生物学を学ぶためにマリへ移住し、大学院を卒業してから、
バック・シンガーとして音楽活動を開始したという経歴の持ち主。
マリ人ミュージシャンとの縁が深いのは、マリでの体験が大きいのでしょう。

ジャズ・ヴォーカリストとしての資質を前面に打ち出したデビュー作で、
ジャズ系フランス人ミュージシャンとともに、
マリ人ヴェテラン・ジャズ・ミュージシャンのシェイク・ティジャーン・セックや、
セク奏者のズマナ・テレタ、セグー出身のバンバラ人歌手のババニ・コネなど、
マリのミュージシャンが多く参加していたのも、こうしたキャリアゆえ。

パメラの母語であるアカニギ語(パメラはンドゥム人)や、
ンゼビ語などのガボンのバントゥー系諸語に、フランス語、英語を駆使して歌う
パメラの歌は、アフリカ女性のエンパワーメントを多く取り上げているとのこと。
洗練されたサウンドにのるパメラのキリッとした歌いぶりから、
インテリジェンスが伝わってくるのと同時に、
しなやかな女性らしさがにじみ出てくるところに、とても惹かれます。

Pamela Badjogo "YIÊH" Raphia RAP004CD (2024)
Pamela Badjogo "MES COULEURS" no label no number (2016)
Pamela Badjogo "KABA" Raphia no number (2021)

Congo Funk!.jpg

アナログ・アフリカの新作は、コンゴのファンクにスポットを当てたコンピレーション。
ルンバ・コンゴレーズ黄金時代を迎えていた、
コンゴ川両岸に位置するキンシャサとブラザヴィルという二つのコンゴの首都で、
ファンクがいかに咀嚼されていたかを示そうという企画、なのかな?

選曲は69年から82年までの独立系レーベルのシングル盤から取られていて、
デジパックのジャケットには、魅力的なシングル盤スリーヴがずらりと並んでいます。
さぁ、どんなコンゴ・ファンクが楽しめるのかと思いきや、
う~ん、企画意図をハズした選曲が目立つなあ。

タブー・レイ、ベラ・ベラ、セリ・ビジュー、ザイコ・ランガ=ランガの 4曲は、
まごうごとなきルンバ・コンゴレーズで、ぜんぜんファンクなんかじゃない。
タブー・レイ(ロシュロー)なら、
ジェイムズ・ブラウンを意識した曲がいくらでもあるっていうのに、
なぜこれを選んだのか?って感じで、ガックリ。
このアルバム、2000曲から14曲に絞り込んだというけど、
2000曲のセレクションじたいがダメだったんじゃないの?

そういう不満が残るコンピレではありますが、
趣旨にバッチリ沿ったファンクも、もちろん聞けます。
一番の聴きものが、レ・バントゥ・ド・ラ・カピタールの ‘Ngantsie Soul’。
これは最高のアフロ・ジャズ・ファンクですね。
8分30秒に及ぶタフなダンス・トラックで、
リズム・ギターのファンキーなカッティングがグルーヴを巻き起こし、
ホーン・セクションが重厚なサウンドを生み出し、
トランペット、サックス、トロンボーンのソロが熱演を繰り広げます。
さすがはブラザヴィルのトップ・バンド、演奏力の高さは随一といえます。

対抗馬となるキンシャサ代表、OK・ジャズの2曲もスゴイ。
69年という時期の早さに、フランコの先見性がうかがえるとともに、
優雅なルンバ・コンゴレーズを完成させたOK・ジャズが、
いち早く流行を取り入れた柔軟性にも感心させられます。

OK・ジャズがファンクを取り入れたのはごく短い期間で、
新境地を開拓しようと試行錯誤していたフランコが、
ファンクに熱心なメンバーの意見を取り入れたという面もあったようですね。
今回のコンピレで、ロロことローラ・ジャンギ・カミーユが、
その一人だったことを知りました。

御大フランコ自身もこの時期、ファンク調の曲を作曲し、
ジェイムズ・ブラウンばりのシャウトなどもしてはいたものの、
「ジェイムズ・ブラウンのダンスはまるでサルみたいで下品だ」と
公言していたフランコなので、ロシュローほど熱は入らなかったようですね。

意外な聴きものだったのが、アベティの弟のギタリスト、アブンバ・マシキニ。
MBTズ名義の ‘M.B.T.'s Sound’ では、ワー・ワー・ワトソンばりの
ミュートした単弦リフを聞かせ、アベティ&レ・ルドゥタブル名義の
‘Musique Tshiluba’ ではファズを利かせたロック・ギターを弾いています。
全盛期にはジミ・ヘンドリックスと比較されるほどだったというから、
いかに才能豊かなギタリストだったかがわかります。

優美なルンバ・コンゴレーズを生み出した土壌ゆえ、
ファンクと呼ぶにはまったりしたリズムが、コンゴらしいところでしょうか。
一過性のブームに過ぎなかったコンゴのファンクですが、
振り返ってみれば、なかなかに面白い録音が残されていて、
企画に沿った選曲が徹底されていたら良かったんですが、そこが悔まれます。

Orchestre O.K. Jazz, Les Bantous De La Capitale, M.B.T’s, Orchestre National Du Congo and others
"CONGO FUNK!: SOUND MADNESS FROM THE SHORES OF THE MIGHTY CONGO RIVER 1969-1982" Analog Africa AACD098

Fredy Massamba  TRANCESTRAL.jpg

いやぁ、すごくこなれたコンテンポラリー・ポップだなあ。
プロダクションがしっかりと制作されていて、
プロのポップ職人の仕事を見る思いがしますね。
インターナショナル・マーケットをターゲットにしたアフリカものでは、
これ、出色の出来じゃないですか。

コンゴ共和国ポワント=ノワール出身のフレディ・マサンバの4作目。
このアルバムで初めて知りましたけれど、71年生まれというから、もう50過ぎ。
91年にレ・タンブール・ド・ブラザに参加して世界をツアーし、
93年に勃発したコンゴ共和国内戦でフランスへ逃れ、
ザップ・ママやセネガルのラッパー、アワディとツアーをしてキャリアを積み、
10年にソロ・デビューした人だそうです。

オープニングでいきなり飛び出す、アカ・ピグミーのポリフォニーのサンプリングに驚愕。
続く2曲目のイントロでも、ンゴマを伴奏に手拍子で
コール・アンド・レスポンスをするコーラスがサンプリングされています。
オーセンティックな伝統サウンドから、ジャジーなエレピやギターにラップへと
シームレスにつなげても、なんら違和感なく接続するところが手腕だよなあ。

この人の場合、レ・タンブール・ド・ブラザにいたことが、コヤシとなったんでしょうね。
レ・タンブール・ド・ブラザは、身もフタもない言い方をすると、
外国人相手にアフリカ音楽をショーケース的に演奏するバンド。
少なくとも、ブラザヴィルの同邦に向けた音楽ではありません。
レ・タンブール・ド・ブラザで振付もしていたフレディは、
ここでグローバルなポップスのなかでアフリカ性を表現するスキルを体得したのでしょう。

クレジットを眺めるに、サウンドのキー・パーソンは、キンシャサ出身のギタリスト、
ロドリゲス・ヴァンガマと、プログラミングとアレンジを担当する
マルチ奏者ディディエータッチの二人のよう。
ブルンディ生まれのベルギー人ラッパー、スカ・ンティマがゲストに参加しているのも、
ディディエータッチがプロデュースしているよしみでしょう。

このほかゲストでは、ロクア・カンザといった大物から、
フレディ・マサンバと同郷のポワント=ノワール出身の若手ラッパー、
ストゥ・ワンダーや、マリ西部カイのグリオの家系に生まれ、
現在はカナダで活躍するシンガー、ジェリ・タパがフィーチャーされています。
全曲フレディのオリジナルで、ソングライティングも秀逸。
曲によりホーン・セクションもたっぷり使って、申し分のないプロダクションです。

21世紀に更新されたアフロ・ソウルはジャジーな味わい。
直球ストレートの王道ぶりに胸がすきます。

Fredy Massamba "TRANCESTRAL" Hangaa Music no number (2023)

Les Têtes Brûlées  MAN NO RUN.jpg Les Têtes Brulées  Bleu Caraïbes.jpg

オウサム・テープス・フロム・アフリカのリイシューに触発されて、
ひさしぶりにザンジバル在籍時のレ・テット・ブリューレを聴き直してみました。
レ・テット・ブリューレは90年12月に来日していますけれど、
すでにザンジバルが亡くなった後でしたね。
残念ながらそのとき自分はタンザニアにいたので、
ライヴを観ることはできなかったんですが。

当時はまだビクツィという音楽じたいを知らずに聞いていたので、
レ・テット・ブリューレがいかに革新的なバンドだったのかに気付けたのは、
ずいぶんあとになってからのことです。
来日当時「アフリカのフィッシュボーン」という
アフロ・パンクのイメージで受け止められたのも、
顔や腕や足に白いボディ・ペイントを施し、頭の半分を剃ったヘア・スタイルで、
色とりどりの破れた服にバックパックを背負ったいで立ちによるものでしたね。

こうしたステージ衣装を考案したのが、
バンド・リーダーのジャン=マリー・アハンダです。
ジャーナリスト出身のアハンダは、バンド結成にあたって明確なコンセプトを持っていて、
ベティ人だけのものだったビクツィという音楽をカメルーン全国に広め、
さらにビクツィ・ロックで世界の舞台に躍り出ようという野心を持っていたのでした。

リード・ギタリストのザンジバルのカリスマティックな才能を早くから見抜き、
ステージではザンジバルを中央に立たせてギターとダンスの司令塔を演じさせ、
アハンダ自身はステージの端に位置して、ヨーロッパの観客を沸かせました。
ランスロー=フォティから出した87年のデビュー作
“REVELATION TELE-PODIUM 87” でも、
「ザンジバルとレ・テット・ブリューレ」という名義だったほどです。

このデビュー作のA面全部を占めた ‘Essingan’ は、
ザンジバルがベティ人の伝承曲をアレンジした曲で、
レ・テット・ブリューレ初のヒットとなりました。
レ・テット・ブリューレが88年にヨーロッパをツアーした時に撮られたドキュメンタリー
“MAN NO RUN”(クレール・ドニ監督)のサウンドトラックで、
‘Essingan’ の短尺ヴァージョンを聴くことができます。

ちなみにドキュメンタリー映画 “MAN NO RUN” は、彼らのツアーに同行して
カメラを回しただけの内容のない映画で、観るべきものはないんですが、
サウンドトラックの方は、ライヴ感たっぷりの小気味いいビクツィが楽しめます。
生前時のザンジバルのプレイが聞けるインターナショナル盤は、
このサウンドトラックと、ザンジバルの死後に出た
ブルー・キャライブ盤の2枚しかないんですよね。
世界デビュー前のランスロー=フォティ盤2作もCD化してくれないかなあ。

Les Têtes Brûlées "MAN NO RUN" Milan CDCH360 (1989)
Les Têtes Brulées "LES TÊTES BRULÉES" Bleu Caraïbes 82803-2 (1990)

Gibraltar Drakus  HOMMAGE A ZANZIBAR.jpg

カメルーンのビクツィづいているオウサム・テープス・フロム・アフリカ。
https://bunboni.livedoor.blog/2023-07-27
ロジャー・ベコノのデビュー作に次いで出たのは、
ジブラルタル・ドラクスのデビュー作です。
ロジャー・ベコノと同じインター・ディフュージョン・システムから
89年に出たレコードで、ロジャー・ベコノの一つ前のレコード番号だったんですね。

ロジャー・ベコノのアルバム同様、ミスティック・ジムがディレクションしていて、
バックのメンバーも全員同じ。
ジブラルタルは、ロジャー・ベコノのアルバムにコーラスで参加していましたが、
ジブラルタルのアルバムには、ロジャー・ベコノは参加していないようです。

Gibraltar Drakus  LE ROI BANTUBOL ET L'ORDRE ZOBLAK.jpg

このレコードも今回リイシューされるまで見たことすらありませんでしたが、
ジブラルタル・ドラクスは、99年にJPSから出たCDを1枚持っていました。
99年作は全曲ビクツィではなく、スークースもやっていて、
ビクツィ特有のギターでなくルンバ・スタイルのギターになってしまっているのが残念。

どちらのジャケットも、レ・テット・ブリューレと同じ
フェイス・ペインティングを施していて、
ジブラルタルがレ・テット・ブリューレのフォロワーであることは歴然。
しかもこの89年デビュー作はタイトルにあるとおり、
レ・テット・ブリューレのリード・ギタリスト、ザンジバルこと
エペメ・ゾア・テオドールに捧げられています。

なんでもジブラルタル・ドラクスはザンジバルを兄貴分のように慕って、
作曲やギターを習っていたのだそうで、歌ばかりでなく、
ギターも弾くようにとザンジバルに励まされていたのだそうです。
このデビュー作の前年、ザンジバルはわずか26歳の若さで亡くなってしまい、
ジブラルタルにとってこのデビュー作は、
ザンジバルへの恩返しの気持ちをこめたアルバムだったのかもしれません。

さきほどロジャー・ベコノのアルバムと制作スタッフが同じであることは書きましたが、
ギター・サウンドには少し違いがみられますね。
ロジャー・ベコノのアルバムではリード・ギターとリズム・ギターの絡みが、
伝統ビクツィのバラフォンの伴奏をギターに置き換えた演奏となっていましたが、
ジブラルタルのアルバムでは、リズム・ギターがほとんど目立たず、
前面に出たリード・ギターが1台でバラフォンのサウンドを奏でています。

ギター・バラフォンと称されるビクツィのギターは、
タバコの箱のアルミ・ホイルを弦の間に挟むなどして弦をミュートするのが特徴で、
ザンジバルが弦の間を通した紐をブリッジに寄せるシーンが、
レ・テット・ブリューレのドキュメンタリー映画にあったのを覚えています。
ここではシンバことエヴッサ・ダニエルが、特徴的なビクツィのギターを弾きまくっていて、
カリスマ・ギタリスト、ザンジバルへのオマージュを捧げています。

Gibraltar Drakus "HOMMAGE A ZANZIBAR" Awesome Tapes From Africa ATFA048 (1989)
Gibraltar Drakus "LE ROI BANTUBOL ET L'ORDRE ZOBLAK" JPS Production CDJPS51 (1999)

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